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4.私の「4大嫌いな食べ物」が誕生した日

嫌いな食べ物

〜バナナ、味噌汁、茶碗蒸し、カレーライス。その理由は、食べ物ではなく「1時間」にあった〜

前回、高校1年生のときに引きこもった話をしました。恩師の一言が、止まっていた私の人生を動かしてくれた話です。

今回は少し視点を変えて、施設で暮らしていた頃の話をしたいと思います。

突然ですが、私には食べ物の好き嫌いがあります。

バナナ、味噌汁、茶碗蒸し、カレーライス。

この4つが、私の「4大嫌いな食べ物」です。

嫌いな食べ物があること自体は珍しくありません。しかしこの4つが嫌いになった理由を話すと、多くの人が少し首をかしげます。食べ物そのものに問題があったのではなく、「状態」に問題があったからです。

そしてその「状態」を生み出した犯人が、「1時間」という時間でした。

施設の食事には、独特のリズムがあった

私は18歳まで、施設で暮らしていました。生まれつき障害があり、親元を離れての生活です。

施設での食事には、独特のリズムがありました。

まず配給される。「いただきます」と合掌する。そして、口に運ばれるまで約1時間かかる。

「1時間? それはさすがに大げさでは?」と思われるかもしれません。

大げさではありません。施設には35人から40人ほどの子どもたちがいました。一人ひとりに食事を配り、障害の状態に合わせて介助しながら食べてもらう。どう考えても、時間がかかります。

1時間という時間は、食べ物にとって残酷です。温かいはずのものは冷め、みずみずしいはずのものは変わっていく。その繰り返しの中で、4つの嫌いな食べ物が私の中に生まれました。

4大嫌いな食べ物、それぞれの「事件」

まず、バナナ。

デザートとして出てくるバナナは、丸ごと一本ではありません。いつも斜めにカットされた半分でした。

半分であること自体は、まあ仕方ない。しかし問題は断面です。テーブルに並ぶころには、その切り口が黒く変色しているのです。見た瞬間に「これは食べ物なのか」という疑問が生まれる、そういう色です。斜めにカットされているぶん、断面積も広い。つまり、黒さが存分に主張してくる。バナナが私に語りかけてくるようでした。「おいしくないぞ」と。

次に、味噌汁。

冷たくなった味噌汁は、上澄みの部分と味噌が分離し、底に沈殿していました。温かい汁物のはずが、口にするとひんやりしている。そして底には、謎の沈殿物。かき混ぜれば多少はマシになるのでしょうが、当時の私にはかき混ぜる元気もありませんでした。毎日のことですから。

茶碗蒸し。

茶碗蒸しは、そもそも出来立てでも「得体の知れない食べ物」という印象が子どもにはあります。それが冷めている。卵の部分と水分が分離して、冷たく固まっていました。プルプルしているはずの食感が、どこにもない。もはや別の食べ物です。名前だけが「茶碗蒸し」でした。

そして、カレーライス。

カレーライスの日は、本来であれば「今日はカレーだ!」と喜ぶべき日のはずです。子どもにとって、カレーは特別な食べ物ですから。

しかし施設のカレーライスは、白米が固く乾いていて、カレーの表面には膜が張っていました。特別な日の食べ物が、特別においしくない状態で出てくる。それが重なり、カレーライスは私の4大嫌いな食べ物の一つに定着しました。

ただし、ここで重大な告白がある

カレーライスは嫌いです。

これは今も変わりません。

しかし——。

ここで一つ、正直に告白しなければなりません。

ココ壱番屋のカレーライスは、好きです。

熱々のご飯に、熱々のカレー。膜など張っていません。米は乾いていません。注文してから出てくる、できたての一皿。

「それはカレーライスが好きということでは?」というツッコミが聞こえてきそうです。

しかし、違うのです。よく考えると、違う。

私が嫌いだったのは「カレーライス」という食べ物ではなく、1時間かけて冷め、米が乾き、膜が張り、変わり果てた状態で口に入ってくる「あの時間」だったのだと思います。食べ物への嫌悪ではなく、状況への嫌悪だった。ここに気づいたとき、少しだけ自分が面白くなりました。

「選べない」ということの、本当の意味

食べ物の話を書きながら、気づいたことがあります。

施設での生活は、多くのことが決められていました。食事の量も内容も、トイレの時間も回数も、お風呂の曜日も。そして当然、食べ物の「状態」を選ぶ余地もありませんでした。

子どもながらに、こんな思いが浮かんでいました。

「どうして、自分のことなのに、自分で決められないのだろう。」

バナナが黒ずんでいても、味噌汁が冷たくても、それは「そういうもの」として受け入れるしかありませんでした。「今日は出来立てのカレーが食べたい」と思っても、その選択肢はどこにもない。選ばないのではなく、選べない。それが当たり前として与えられていた日常でした。

嫌いな食べ物の話が、気づけば「選べない人生」の話になってしまいました。

しかしこれが、私の正直な記憶のつながり方です。バナナ一本の話が、人生の問いへとつながっていく。人間の記憶とは、不思議なものだと思います。

読んでくださったあなたへ

今、何かを「仕方ない」と諦めている方に、一つだけ伝えさせてください。

「選べない環境」は、人の可能性を静かに狭めていきます。食べ物の状態一つでもそうです。それを選べるかどうかが、日々の小さな自由をつくっていく。

頼れる先を増やすということは、選べるものを増やすということでもあります。

そして今の私は、カレーライスが食べたくなったら、ちゃんとココ壱番屋に行きます。

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