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2.『選びたかった』〜親元を離れて育った私が持ち続けた問い〜

「頼れる先を増やし続けることが、本当の自立だ」という話を私はいつもしています。

その考えに至るまでには、長い時間と、多くの経験がありました。
今回は、その問いを持ち始めた原点、つまり施設で過ごした幼い頃の記憶について書きます。

当時の私には、言葉がありませんでした。
自分が感じていることを、うまく説明できる言葉が。
ただ、心の奥に小さな問いだけが、静かに積み重なっていきました。

どうして、自分のことなのに、自分で決められないのだろう。

その問いが、今の私をつくりました。

先天性多発性関節拘縮症と、措置制度の時代。

私は1979年10月30日、岐阜県多治見市に生まれました。
生まれたとき、首と足首にへその緒が二重に巻き付いており、その影響かどうかは分かりませんが、「先天性多発性関節拘縮症」という障害の診断を受けました。

先天性多発性関節拘縮症は、生まれつき複数の関節が拘縮(固まった状態)になっている障害で、身体の動きに大きな制限が生じます。当時の医療では、手術とリハビリを繰り返すことが主な治療法でした。

そして当時は、「措置制度」の時代でした。

措置制度とは、障害のある本人や家族の意思とは無関係に、行政が一方的に生活の場や支援内容を決める仕組みです。家族が一緒に暮らしたいと願っても、行政の判断が優先されました。

その結果、岐阜県多治見市で生まれたにもかかわらず、家族と一緒に暮らすことは許されず、18年間を親元を離れて施設で過ごすことになりました。

施設での暮らし――すべてが「決められていた」日々。

施設での生活は、多くのことが決められていました。

毎日の食事の量も内容も。トイレに行ける時間も、その回数も。お風呂に入れる曜日も。
私の一日は、私以外の誰かの都合によって、整えられていました。

施設にいた大人たちは、決して悪い人ではありませんでした。
優しくしてくれた人もいましたし、感謝している部分も確かにあります。

ただ、どれだけ優しくされても、その人は親ではない。寂しくなって泣きそうになっても、抱きしめてくれるのは家族ではない。その事実だけは、何年経っても変わりませんでした。

夜になると、静かな部屋の天井を見つめながら考えていました。

お母さんは今、何をしているのかな。
会いたいなぁ。

その感情に名前をつける言葉を、幼い私はまだ持っていませんでした。
ただ、胸のどこかがずっと、重く、冷たかった。

11回の手術――それでも、歩けなかった。

施設での生活の中で、私は11回の手術を受けました。

当時の施設では、「健常者のように、何でも一人でできるようになること」が正しいとされていました。そのための治療として、繰り返し手術が行われました。麻酔が切れたあとの痛み、リハビリの苦しさ、それでも結果が出ない焦り。幼い身体で、それを何度も経験しました。

しかし、11回挑戦しても、歩くことはできませんでした。

残ったのは、身体の傷跡と、「自分の人生を自分で決められなかった」という記憶でした。

今、振り返ると気づくことがあります。

私は、歩きたかったのではなかったのかもしれない。

やる・やらないを、自分で決めたかった。
挑戦するかどうかを、自分で選びたかった。
手術を受けることも、受けないことも、自分の意思で決めたかった。

けれど、当時の私にはその選択肢すら与えられていなかった。
「やってみたい」と思うこと自体が、最初から選択肢に存在しなかった。

「選べない」という状態が、人の可能性に何をするか。

障害福祉の世界では、「自己決定の尊重」という言葉がよく使われます。
本人が自分の生き方を自分で決める権利を守る、という考え方です。

私はこの言葉を、頭で理解する前に、身体で知りました。

選べない環境は、人の可能性を静かに、しかし確実に狭めます。

選べないから、夢を持てなくなります。
夢を持てないから、努力する理由も見えなくなります。
努力する理由がないから、自分の価値も感じられなくなります。

この連鎖は、障害のある方だけに起きることではありません。
家庭環境、貧困、病気、介護、さまざまな事情で「選べない」状況に置かれた人が、同じ経験をしています。

だから私は、C-POWERグループを通じて、「選べる環境をつくること」を使命と定めています。
就労支援も、生活支援も、相談支援も、突き詰めると「その人が自分で選べるようになるための支援」です。

18年間の寂しさが残した、一つの問い。

18年間の施設生活は、今も心のどこかに残っています。
ふとした瞬間に、あの静かな夜の天井がよみがえることがあります。

しかしその時間は、単なる悲しみではありませんでした。あの経験は、私に一つの問いを残してくれました。

人は、どうすれば「選べる」ようになるのだろう。

選べない環境は、人の可能性をどれだけ狭めてしまうのだろう。

そして、どうすれば人は自分の人生を取り戻せるのだろう。

この問いを抱えたまま、私は成長していきました。
小学部、中学部と施設の中で進学し、やがて高等部へ進む頃には、ある現実が見えてきました。

高等部を卒業すれば、施設を出なければならない。
ずっと「理解されている」環境にいた私が、「理解されないかもしれない世界」へ出ていく。

その現実が、高校1年生の私を、完全に動けなくさせました。

読んでくださったあなたへ

もし今、「自分で決められない」「選べる気がしない」と感じている方がいたら、伝えたいことがあります。

それは、あなたが弱いからではありません。

選べる環境が、まだ整っていないだけです。選択肢が、まだ見えていないだけです。

人は、選択肢があるから選べます。頼れる先があるから、踏み出せます。

そのための場所をつくること。選択肢を届けること。

それが、私がこの仕事を続ける理由です。

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